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『GBRCニューズレター』第500号達成に寄せて
私は東京と仙台に自宅がある。単身赴任生活が長い。2011年3月11日(金)、「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」いわゆる東日
本大震災が起きたとき、私は東京で、大学の12階にある自分の研究室にいた。幸
い私の研究室は、耐震用書庫に入れ替えていたので、被害はゼロだったが、震度5弱で5分以上も揺れていたので、周りの研究室では、壁に固定されていたはずの書
棚が、ねじを引きちぎって倒壊し、死傷者が出なかったのが不思議なくらいの惨状だった。5分以上も揺れていたその最中にインターネットで地震情報を確認すると、宮城
県で震度7と出てきて驚いた。自宅のある仙台も震度6弱。そして1時間ほどする
と、携帯のワンセグのテレビで、あの津波のシーンが放送され始めた。正直、あの仙台平野を、あんな内陸まで何キロも津波が駆け抜けるなどという光景を想像すらしたことがなかった。そのとき、「無事に仕事先にいる」という妻からの呑気な携帯メールが1時間遅れで着信した。テレビでは、妻の仕事先のあたりまで津
波が押し寄せていると繰り返し放送していた。私の東北大学赴任を機に、私たちが仙台に住み始めたのは1987年だったが、そ
れからしばらくの間、仙台空港までは一般道(国道4号線バイパス)を使って自家用
車かバスで行くしかなかった。その頃、一般道に並行するように、まるで河川の堤防か何かのように、南北に延々と続く「土手」があった。新参者には不思議な光景でしかなかったのだが、それが1994年に高速道路「仙台東部道路」となって
開通したときには、あきれて笑ってしまった。これから宅地開発や工業団地開発がどんどん進んでいくであろう地域に、東北新幹線のような高架ならまだしも、あんなに高く盛り土をしてしまったら、平地をわざわざ東西に分断してしまって不便だろうにと。なんと愚かな……とも正直思った。 ところが、その仙台東部道路が、テレビ中継で津波の行く手を遮った。仙台空港を飲み込み、なおも勢いを増して内陸へと西進する津波を、この仙台東部道路が見事にはね返したのだ。上空から津波を追いかけていたヘリコプターのテレビ映像が、その信じられないような光景をつぶさに映し出す。私はワンセグの携帯を思わず握り締めていた。私の妻も助かった。 高速道路にそのような機能をもたせようと考えていた人がいたとすると、脱帽である。震災後になって、仙台平野であの規模の津波が450〜800年に一度襲来す
るという説が最近になって唱えられ始めていたと報道されたが、その学説が唱えられるはるか以前から、仙台東部道路はあのような姿に設計され、建設が始まっていたのである。 今回の東日本大震災は、多くの人の生き方に影響を与えたようである。かくいう私も、GBRCを舞台に、私の「仙台東部道路」作りを始めた。おそらく、事情を
よく知る人であればあるほど、あきれ、笑い、馬鹿にするであろう計画に、既に昨年から準備に着手し、近日中に、いよいよ本格的にスタートさせることになる。その悪戦苦闘ぶりは『GBRCニューズレター』で経過報告はさせていただく
が、あきれ、笑われても致し方ない。もとより覚悟の上で始めたこと。1858年に
出版され、日本では明治4年に『西国立志編』(中村正直 訳)として出版されて、
当時、日本で100万部も売れたといわれるスマイルズ(Samuel Smiles)の『自助
論』(Self-Help)冒頭の次の有名な一文を胸に。
「天は自ら助くる者を助く。」(Heaven helps those who help themselves.) GBRC理事長 高橋伸夫 (東京大学大学院経済学研究科教授)
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